「帰りたくない。」




の小さな声が、はっきりと俺の元に届いて脳内に響いた。




ビルばかりが立ち並ぶ都会には、やがて朝が来る。






夜明けの街で揺れる






は俺の横をしっかりとした足取りで、ヒールの音を街に響かせながら歩いている。



少しだけ表情を曇らせて地面を見つめて何を思っているのか。


何を言ったらいいのか、と考えて、口を開くことをやめた。



俺は視線を前へと戻す。





「夜なんて明けなければいいのに。このまま、ずっと…霞んだままでいいのに。」




の願いとは裏腹に、空の色はどんどんと白けてくる。


あんなに濃かった夜の闇は、やがて青みを含んで俺たちの前から姿を消した。




春先とはいえまだ肌寒い街中を、俺とは少しの距離をもって並んで歩いている。



もう何分歩き続けているんだろう。


特に行き先もないまま、こうして二人で歩いていることに、意味はない。







「ねえユノ、入る?」





が立ち止まり、指差す先に目をやる。





「…入らない。」


「えー…いいじゃない、入ろうよ。私疲れた。」


「ならファミレスでも探して入ればいいだろ。」




軽くため息をひとつついて、を待たずに俺は歩き出す。




ネオンカラーの目に優しくない蛍光看板。


外からは中を窺えないような外装に、でかでかと書かれた料金設定。



俺とが入るような場所ではない。


恋人同士が、愛を囁きあうために入るような場所だ。



仮に俺たちが恋人同士だったとしても、入るという返事はしないだろう。





「ユノ、私帰りたくない。」





の言葉に足が止まった。



その言葉に理性が揺さぶられたからではなく、この場から動かないぞという意思表示に対抗するためにだ。




空はだいぶ明るくなってきた。人の気配は俺たち以外にはない。


冷たい風も吹いている。酒を入れた体と頭には軽く応える。



新聞配達のバイクが一台、俺たちの横を通り過ぎて行った。




俺の脳内が寝ろと指示を出しているらしい、まぶたが重い。


目の前のは眠さを微塵も感じさせない、懇願するような瞳で俺を見ていた。





「帰りたくないって、なんで?」




小さく深呼吸をすると、冷たい空気が肺に流れ込んできた。



今日の夜明けを妙に現実感がない。


まるで別世界にいるようだ。



夜が明ければ、また現実に。帰るべき場所が戻ってくる。




は現実逃避がしたいということだろうか。



このまま、現実味のないこの時を、別世界のように感じられるこの空間にいたいと。





「…そういうことか。」


「…ユノ?」


「このままでいたいから、俺とこんなとこに入ろうとするの?」




視界の隅に入るネオンカラーがひどく邪魔だ。



が下唇を少し噛んだ。


そのまま俯いて、俺の顔を視界から消す。





「それとも今更盛っちゃった?酔いはとっくに醒めてるのに。」




下を向いたまま何も言わない。


俺はぐいと腕を引っ張って、ネオンカラーの看板を過ぎてビルの中に入る。



驚いたが俺の名前を小さく呼んで、それきりまた黙り込んでしまった。




適当に部屋を選んで、を引っ張り込んでドアに鍵をかける。



部屋に入ったのと同時に掴んでいた腕を離して、俺はベッドに腰をかけた。


スプリングが俺の体重を受け止めて音を鳴らす。




「入ったよ。で、どうする?」


「……」


「俺とよろしくやる?それとも、風呂入って着替えて寝る?」


「…ゆ、の…」


「俺とこんなとこに入って何がしたかったんだよ、。」




ドア付近に立ったまま動こうとしない


また俯いて、表情を曇らせた。




まぶたが重い、脳が寝ろと信号を送っている。



でも俺はまだ寝れない。





「お前が俺に抱けっていうならそうするし、何もするなって言うならそれに従う。お前が決めろ。」




あくびをかみ殺す。目に涙が浮かんで、視界が一瞬ぼやけた。


手でそれを取っ払って再びを見ると、本物の涙を目に浮かべたが俺を見ていた。



ごめんなさい、と小さな声で囁く。


そこで俺はひとつ、ため息を漏らす。



重たい空気が部屋中を支配している。





、やけになって男にホテルに入ろうとか言うなよ。自分の身は自分で守るしかないんだぞ。」


「ごめんなさい。」





俺にだから言えた部分もあるんだろうけど。



それだって、無防備にそんなことを言うもんじゃない。




自分でも過保護だなと思ってしまう。


俺はどうしても、を甘やかしてしまう。





「…ほら、疲れたんだろ。少し寝たほうがいい、そんな顔だとおふくろさんも親父さんもびっくりするぞ。」


「…ユノ、は、」


「俺も寝る。心配しなくても手は出さないから。…ベッドひとつしかないから、そこは我慢してくれ。」





上着を脱いで適当に椅子に投げる。



布団をめくって、に来いと目で伝えた。


おずおずと歩いてくるに、「上着は脱いだほうがいいぞ。」と声をかける。




まるで世話やき係り。


まあ実際、そういう仕事なわけだが。





「ユノ、ごめんね。私――」


「いいから早く寝る。明日…いや、今日の夜はレセプションだぞ。」


「…うん、ありがとう。」





少し距離を置いて俺も横になる。



冷えた体を温めてくれる毛布は、軽かった。







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2013.4.16

いいとこのお嬢様ヒロインと、その護衛兼お世話係みたいなユノ。
そういう描写がまったくといっていいほどなかったので、読み手様は「なにこれ、」状態だったと思いますが…
申し訳ない。
もしかしたら続く、かも。